あたしたちと美しい男の子
もう本当に情緒不安定で各方面にご迷惑をおかけしているような気がするわ。
仕事をしていない、という肩身の狭さもあるのか、積極的に人に会うのは避けたい気分。。
とは言っても、誘っていただけるのは嬉しいし、今のこの時期、無理にでも人と会わないとダメになってしまうわね。
話をするのって、本当に大事。
あたしたちはめちゃんこ頭がいいし、なんでも自分でできる、一人で生きていけるのよ。
でも一人じゃ可哀想なんだわ(オルファンさーん!聞こえてー?)
ここ最近、人離れしているので話し方もぎこちないし口を動かすのも嫌になってしまうのがちょっと恥ずかしいわね。
それでも気遣いとか、逆に気を遣ってもらわないとかが、助かりますわね。ありがたやありがたや。
そんなこんなで、忘年会に参加して、二次会に二丁目の某有名店(あたしが有名店と思ってるだけ。)に行ってきました。
すっげー人。
エレベーターから出たら
「満席で入れないですよ!」と若い男の子たちに言われの、
「あ、あたしたち予約してるんで」とあしらいの、でテーブル席に案内されの。
もうみんなプリプリしてて若いわーー。
髪の毛、肌、ファッション、体型、ありとあらゆることに手を入れてる感じ。
髪の毛→ジェルは塗ったけどほんとにこれで合ってんの?塗ってなくても変わらなくない?
肌→シェーバー負けなのか吹き出物なのか、プツプツザラザラ。そもそも頰肉がたるんでいる。
ファッション→3年前に買ったダッフルコートに、厚手のネルシャツ。機能重視。
体型→ぽよよ〜〜〜ん!!
な、あたしたちはとても同じ人類とは思えず、飲み会疲れもあって置物のようにチョコンと座っておりました。
なんだろうか。
色気ついてるっていうのは、こういうことなのかしらと。
もうきっと。8割くらいはシャワ浣も済ませてきてて、この後盛り場でイチャコラするんだろうか、と。
盛り場にすら行かないのかもしれない。
彼らは埼玉なり千葉に住んでるけど、新宿の近くに別宅があって、しかもそれはセフレとか溜まり場とかではなくて、ただの彼氏未満(彼らはそんな相手がたくさんいるのだ!)だったりするわけで。
土俵が全然違うわよ。。
まともに戦って勝てる相手じゃない。
そもそも相手にすらなれない。
夜向きのメイクも服装もして来れない、それなのにちょっとオシャレみたいな格好をしている、10代の頃のあたしたちが見てきたような「おばさん」そのものだ。
それでも、おばさんならではの図々しさであたしたちはこう言いたい。
ちんぽ舐めたい!!!
あたしたちの占い
はた、と思い出したことなんだけれど。
あたしたちは毎年、1月に占いに行くようにしている。
今年の運勢を占ってもらって、良いことそうでないことに対して備えるのだ。
とは言っても、だいたい半年くらいで忘れてしまって、一年も終わる頃にしみじみと思い返すことのほうが多いんだけどね。
占い師にさんざっぱら「2016年は我慢の年になる!この時期は何もしないで今のところにとどまりなさい。転職も引越しも結婚もだめ!」と言われていたことを思い出したの。
確か「職場を変えても負担が重くのしかかるから長続きしないし、3ヶ月とか短い期間の派遣をこなして様子を見なさい。我慢するなら相当の努力が必要で、しかも貴方は我慢できない」のようなことを言われた気がする。
体調を崩すようなことも言われていたような。。
(もちろん、思い出補正込みで、思い込んでるだけかもしれないけど)
恋愛については、あなたは頑固だから、絶対に折れないし頑固なのは治らないから、それに耐え忍んでくれる人を探すか一人で生きる覚悟をするんだね、というような話もしたような気がする。
結果としてあたしたちは、近年稀に見る情緒不安定に見舞われて、今は外を出たり人と話すのもやっと、というところなのだ。
占いを信じるか信じないか、そもそも占いって当たってるのか、心理操作なのかっていうところで、
あたしたちは別に占いを信じてるわけじゃない。
ただ、あなたはこんな人だから気をつけてね、と言うのは、きっと「第一印象をそのまま話すだけ」であることの方が多いと思う。
人間の勘は甘く見てはいけない。これだけ社会性のある文明を築いてきて、「相手のことが何もわからない」ことなんて、あるわけがない。
気難しそうだな。
意思強そうだな。
我慢強くはないだろうな。
だらしないな。
とかっていう、案外誰にでも当てはまりそうなことで、
それでも第一印象として残ってるものっていうのは、やっぱり優先して是正しなきゃいけない所だし、言われてる方もピンと来るものだと思うのよね。
自分がどんな人間なのか聞いてみたくなる時があるじゃない?
その時に、初対面の人に「思ったことを言ってみて」なんて言ってみても、絶対無難な回答しか返って来ないと思うの。
そんな時は「あたしを直感だけで占ってみて?」って聞いてみたらいかがだろうか。
占いだから、という気楽さで、私の印象を教えてくれるかもしれない。
相手は自分の鏡だから、逆算して相手との接点や、弱点、会話のきっかけが見つかるかもしれない。
そしてあたしたちは、直感で第一印象をズバリと言ってしまうことの方が多い。
苦労してるんじゃない?良く見られようとがんばりすぎてない?とかなんとかね。
でもきっとそれってあながち外れてるわけじゃないし、例えば「相手を動揺させること」がその会話の目的であれば、おそらく多かれ少なかれ成功していると思うのだ。
2016年を振り返るあたしたち
もう12月にもなって皆さまどうお過ごしですか?
忘年会シーズンです、毎週のように今世紀最大に酔ってますか?
今年の一文字は「金」だそうですが、
やっぱ世の中Moneyよね、と思ったらGold Medalとかの金ということのようでした。
まぁ、政治とカネのネタは常に耐えないから、新鮮味に欠けるし。
東京五輪に纏わって、莫大な費用が「やっぱこの価格!」「がんばればこの価格!」とか右往左往してるのは、大きなプロジェクトなんだから仕方ないけど、もし高額になるのだとしても、現場で働く人や、中間に入る人、上に立って方向性を決める人、それぞれに適正な金額が入るのが一番なのではないでしょうか。安く済ませりゃいいってもんでもないよね。
マジで世の中、お金がなくなって、お金がないのが当たり前になって、お金を使えなくなって、お金を使わないのが当たり前になったら、どうなっていくのかね。
逆転裁判4の体験版が120円で売られてるらしい。体験版なのに有料って珍しいわよね。
中には、基本無料〜数百円単位のソーシャルゲームに慣れてしまってると「フルパッケージ」という概念がないから、詐欺のように感じてしまう人もいるのですってね。
ビジネスモデルが頭に入ってないと、その非常識さがわからないのって、そもそもが無料だと騙されてる売りつけられてるから、だと思うけど、
王道だった販売形態が逆転して詐欺っぽく感じてしまうのって時代の流れだな、と思います。
ゲームはフルパッケージじゃないとやった気がしないあたしたちからしたら、
「基本プレイは無料だけど、毎日ログインしないとアイテムが増えなくて広告が常に画面に表示されて、現実のお金を投入してゲームの中で強くなって、ストーリーなんかあるのかないのかくらいでチュートリアルが終わったらひたすら画面をクリックするだけ」のゲームって何が面白いのよ。
そっちの方が詐欺なんじゃないの、って思うけどね。
だからと言って、ペルソナ5とかGジェネレーション ジェネシスを買って「これこれ〜〜!毎回変わりばえしないこの感じ!」ですぐに飽きてやらなくなったあたしたちです。。
こういうのはほら、波だから、ご縁みたいなものだから。お布施だから。
YouTubeで音楽を聞けるのが当たり前になったり、音楽なんてテレビつけてたら流れて来るくらいで良くなったり、で、
CDに3000円払うのがもったいなく感じるものね。
あたしたちももう、年齢的にも「最新」を求めなくなってきてるから、昔流行ってた曲をイヤホンで流すくらいがちょうどいいもの。
そりゃ音楽も文学もテレビも何でもかんでも衰退していっちゃうわよね。
人類の歴史は文化の歴史だと思うけど、いくとこまで来ちゃった感が半端ないよね。
いい小説もいい曲も昔にいっぱいあって、今あるものはコピーライトでしかないんだよ?すごくない?
つまりあたしたち自身がもう既になんらかのクローンであることに半ば気づかされちゃってるわけ。
もはや「自分は何者になるのか」とかじゃない。
今年読んで一番感動した小説なんて「電気羊はアンドロイドの夢を見るか」だもん。
1969年ですって。日本で翻訳されたのが、よ?
一番ハマったゲームも、ロマンシングサガ〜ミンストレルソング〜で、2005年のゲームだし。
聞いてる音楽もSILVAがDJをする前のバージンキラーとかだから、2000年の曲。
2016年になってもまだ聞いてるとは思ってもみないだろうな。
というわけで2016年の一文字は「金」でしたとさ。
オリンピックなんて4年に一回(夏と冬あるから実質2回?)なのに、オリンピックイヤーのたびに「金だよ、金!」ってなってるのって、個人的にはバカっぽいなと思います。
そんなあたしたちの一年はどんな一年だったでしょうか。
退職を迫られ、やっとのことで見つけた正社員の場が合わず心身共に疲れ果てて倒れてしまったから「病」かなと思ったりもしましたが、
私の今年の一文字は「正」ということにしようと思います。
結果的に正社員になれてわかったことも多かったし、ということは置いといて、
政治的中立性(ポリティカルコレクトネス?)とか、
そこまで難しく考えないことも「あたしたちの正しさ」みたいなのを意識する一年でもあったな、と思う。
正解とか潔白とかじゃなくて、なんていうかなーー。
今のあたしたちって、未来のあたしたちから見たら振り返る過去でしかないわけじゃない。
そういう目線で「あの時のあたしって、みっともなくて恥でしかないけど、まぁ正しかったよね」って思えたらいいんじゃないかしら。
毅然、みたいな?
なんというか、取捨択一の中で生きているのだな、というのを意識したような気がします。
つまりね、これよ。
あたしたちの激情
なにやら、うっかり軽口を叩いてしまったようで、やんわり謝ってケムにまこうとしたのですが、どうやら他にも思う所はあったらしく。
「一晩考えた結果、俺はお前を甘やかし過ぎた。社会復帰できないんじゃないかと心配だから、これからは接し方を考えさせてもらう。詳しい話は会った時に。」
とLINEが来た。
LINEでギスギスするなんて。
電話でもメールでもmixiでもなく、LINEですよ。時代はLINEです。
時代に、追いつけない。。
(9年間彼氏がおらず、当時はSNSがこんなに発達していなかった。)
言われなくても、週に4回は会ってるのに、
「会った時に話すから覚悟しろよ」と前置きをされるということは、どういうことかしらと。
別れるのかしら?
クリスマス前に別れるのは、少なくないのよね。
「あたし、恋人はできたけど、本当にこれでいいのかしら?」と、クリスマスという強大なイベントを前にして怯んでしまう現象。
クリスマスまでに彼氏が欲しいの〜なんて言ってる輩に多く見られますね。それで決まってクリスマスは独り身の友達と「やっぱり恋人が欲しい〜〜」とか言いだしちゃうやつ。
あたしたちは病気を盾にして逃げるように退職をしたので、
「甘え」「社会復帰」「心配」「接し方」と散りばめられた単語に対して、気が滅入るというか、やっぱりな、というか、卑屈な感情がマシマシになってしまうのです。
理解なんてしてもらえると思ってないけど、なまあたたかく見守っていて欲しいのに!
「結局会社を辞めたのだってあんたの甘えでしょ。社会は厳しいものだよ。」
「あの程度の仕事もまともにこなせなくなって、他にどんな仕事がつとまるっていうのよ?」
「せっかく正社員になれたのに、早々にドロップアップしちゃって、もうあんたの人生おしまいだね」
「自分は病気だから、って言い訳で逃げ回って、相手に気を遣わせて、困ったら怒り散らしてどんな気分?楽しい?」
あたしたちの人生なので、その中の主役であるあたしたちが一番「ヤバい」と感じているし、ぶっちゃけ、彼氏と言えどもそこに土足で(LINEで)ドコドコ入ってくるのはどうなの、と。
あたしたちは、ある程度自分の感情をコントロールして生きることができる。
悲観してこのまま落ちていってしまうことも、楽観して浮上を待つのもできる。
「とはいえ、正社員で雇い入れされるくらいの実力を、認められた経験はあるわけでしょ?」
「今回が異例のテンポで退職になっただけで、それまでは4〜5年働いてきたわけで、継続する力はあるわけじゃない。」
「あの時のあんたは確かにビョーキだった。朝から晩まで吐いて、トイレにも行けなくて、指一本動かせない。当時の記憶さえほとんど残ってない。あんなまずい状態で、それを打開する体力も気力もあるわけない。」
だから、あたしたちはネガティヴとポジティヴを行ったり来たりして、バランスを取ってる。
長期療養する選択肢はなかった。
それだったら退職をしないで休職してもよかったし。
あたしたちは働くことが大好きで、家でぼーっとしててもつまらないから、週末だって用事がなかったら仕事したいくらい。
だいいち、こんな病気なのかそうじゃないのか、治るのか治らないのかわからはいものに対して、まともに向き合って、治療に専念して寛解を目指そうとすること自体が、おこがましい?というか、夢みたいな話なんだと思ってる。
「はい、今日からあなたは寛解しましたね!これからは元通りに楽しく生きていけますよ!」なんて宣言してくれる人はいないし、自分で宣言するのもイタすぎるじゃない?
だからあたしたちは、早期に退職して、
治療もそこそこに、新しい仕事をしていかなくちゃ、と思ってる。
仕事ができない子でいることのストレス(起因するものは人間関係なり職場環境なり色々あれ、ね。)で病気になったのなら、仕事がバリバリできるようになれば、それが一番の治療になるのでは、と。
それなのによ。
真意はどうあれ「私を心配してくれる」存在は重荷になると思うの。
言い方にも腹が立つ金曜の午後。
お金の無心だってしてないし、
酒浸りになって暴力も振るわないし、
ギャンブルだってしてない。
誰にも迷惑をかけずに、治療に専念していたところに、突然水をかけられて、心外だわ。
(親には迷惑をかけているわ。ごめんなたい。。)
どういう意味なの、と真意を問い正そうとしても「会って話したい」の一点張り。
自分が言いたいことはLINEで一方的に伝えて、以降は会ってから、なんてあたしゃ納得いかないね。姑息だよ!
そもそもそんな、怒られるためにおめおめと馳せ参じるようなあたしたちじゃない。
お互いに日本語は第一言語で、30年以上生きてきたのだから、どんな話をしたいのか、前向きな話なのか後ろ向きな話なのか、会って話をしてみたいと思えるか、物言いを変えることはできるでしょ。
変えられないなら、せめて気を使って、と。
百歩譲って言葉不足であたしたちな誤解しているのだとしても、その後も「そんなつもりじゃない」「間違った解釈をしてる!」と、王道の言い返しパターン。
自分が思った通りに相手に意見を伝えるのって、簡単なことじゃなくない?
100%正確に伝えることなんてできないし、それはLINEも電話も、面と向かって話をしても同じ。
面と向かって話せばきっとわかってくれる、というのは、落ち着いて会話ができないから、言いたいこと言えてないだけだと思うのよ。それできちんと会話できた気でいるなんて、傲慢でしかない。
「相手に伝えた言葉が、同じ意味で伝わるとは限らない」というところを、そもそも理解できない人と、あたしたちは今後も長くやっていけるのかしら。
事あるごとに「そんなつもりじゃなかった」と言い張られてもさ。
「そんなつもり」の話をする人って苦手だわ。
あたしたちって「そんなつもりじゃない」って受け止め方をされても、それはその人の感じ方次第でしょ。精神状態や天気や気圧にも影響される。加えて言えば月の満ち欠けも影響するわ。
「やっちまったかー!」とは思いこそすれ、本来の意図と擦り合わせることがいかに無駄なことかわかってる。
この状態で話なんてできない!時間を置かせて、と一方的に告げて、今なう、モヤモヤを残したままでいます。
冷静に考えると、別れ話をしたかった、のよねぇ。。
あたしたちの孤独
金曜の夜からさっきまで、
彼氏と48時間一緒にいました。
人間嫌いで有名なあたしたちは、よく知らない人と一緒にいると、3時間で疲れて6時間で帰りたくなります。
好きだし話も会うし一緒にいたいし会えない時は会いたくなるけど、他人は他人。
ちょいちょい、1人になる時間を設けて、やり過ごしていたのですが、
シャワーを浴びたりご飯を食べたりするタイミングをお互いに調整しないといけなくって、更に疲れる。
1人でいる時間がないと息苦しくなるあたしたちからしたら、シェアハウスとか同棲とか、そもそも結婚生活とかありえないわけですよ。
でも、昼夜逆転も治ったし、吐くこともなかったし、楽しく過ごしたわけです。ノロケ。
あれだね、温泉に一泊旅行はサイコーだけど、家に帰ると「やっぱり家がいいなー」っていう感覚で、1人で家に帰って、文字通り全てを脱いで、1人を堪能すると、心が休まるわけですね。
おうち大好き。
あたしたちの文章書き
あたしたちは別に仕事でブログを書いてるわけじゃない。趣味ってほど、没頭してるわけでもない。
例えていうなら料理と似てるよね、っていうところで、料理と文章書きの共通点、みたいなのが出てきたのでちょこちょこ書いてみます。
料理は得意ですか?と聞かれたら、
「あたしの作る料理は、酒に合います」と答えます。
味付けは濃いし、簡単だし時間もかからない。その分雑で大味だけど、お店で出されるのとは一味違った「家飲みの醍醐味」みたいなのもあります。
文章も一緒ですね。
説明もほぼ省略してるし(自分でどの部分に説明が必要なのかも把握していない。自己満足で書いてます。)
テーマさえあればそれでズバババっも書き上げちゃう。何個も書けちゃう。
オチも書きながら考えるし、好き勝手に脱線する。
本職のライターが書くような、読みやすくて素敵な見栄えのいい、軽量カップでみりんと醤油を入れるような文章は書けないけど、
家飲みのような(あたしが目の前で菊正宗片手に話しかけてるような)文章を書けてると思うの。
たくさん本を読んでる人は、文章を書くのも自然と上手になるし、料理だって色んな料理を食べてれば、ある程度の料理は作れるんだと思う。
(味噌汁にシチューは合わねーよな。赤ワインには肉だよな、レベルよ)
壊滅的なのが、レシピ通りにしか作らないくせに、ないものを調達して来ない人。
みりんがない時に何で代用したらわからないから、みりんも砂糖も日本酒もハチミツも入れないで、お醤油の味が濃くなってしまう、ような。
文章だってそうですよ。読書感想文を例に取ってみると、レシピ(本)はあってそれを読んではいるんだけど、それに必要な材料が手元にない。
自分はどこに感動をしたのか、なぜそこに感動したのか。どの表現がよかったのか。今後自分の人生に何を取り入れられるだろうか。結末以降をどう自分の脳内で補填するのか、結末じゃないにしろ、誰のどういう行動について自分はどう感じて、なぜそこに惹かれ共感できるのか。
皮をひん剥いて肉を曝け出して血を流すんですよ。そこまでしないと「感想」なんか出てこないし「自分の味の料理」だって出ない。
そうでないと、ただレシピ通りに作ってしまって、「それって読書感想文ではなくてあらすじでは?」ってことになる。
あらすじを書いてしまうだけならまだマシで、重要なポイントもわからないから、隠し味のバターでコクを足すのも、小麦粉をまぶして余分な水分を吸うのも、わからない。
だから美味しい料理が作れない。
男と女が出会って、高校生で別れたけど大人になって結婚する話、みたいな味気のなさ。
そもそも読書感想文なんて難しくて書けないんだから、まずは日記なり、ニュースを読んでみて自分はどう思ったのか、感想を書いてみるのがいいと思うけどね。
ブログなんかでよくある「お題を使ってブログを投稿」みたいなのも実は難しいと思う。生姜焼きなら作れるけど、酢豚は作れないもん。
例えば日記を例にあげます。
①今日は○○ちゃんと遊びました!
②服を買いに行ったら、ご飯まで時間があったのでカラオケに行きました。
③ご飯中はお酒をしたたかに飲んで、恋愛論を語らいました。
④二日酔いで頭が痛いし覚えてないけど、フェラチオって連呼したのは微かに覚えてます。
はい、これが日記型起承転結です。起承転結がわからない人はあたしのブログを読む脳みそがないと思うから説明は省くけど、まず料理をしたり文章を書き始める場合はざっくりな流れを決めるとまとまりがつきやすいと思う。
その例として、料理のうえでの起承転結を書いてみます。
①肉に下味をつけて、野菜を切ります。(材料)
②フライパンに油を入れて、ニンニクと生姜を入れます。(器具)
③香りが立って来たら肉を入れて、片面に焼き色がついたら裏返して野菜を入れます。
④めんつゆをまわしかけて、軽く水気を飛ばし、最後に塩胡椒で味付けします。
これが料理の起承転結です。
まずは材料ですね。誰と遊んだのか、いつ遊んだのか、何を使うのかを明確にします。
次に、どう料理するのか、何をしたのかを書きます。
そして、メインです。フライパンに材料を入れて加熱するのと、ご飯をしながら恋愛話に花を咲かせたのは話の中のメインです。
最後に、オチをつけます。料理で言うと味付けですね。めんつゆをかけるだけだと味がぼやけるので、塩コショウをして味を整えます。
二日酔いで頭が痛いだけだと面白くないので、メインに絡んだエピソードを1つ盛り込みます。
これで起承転結型の構成が出来上がりです。
これで面白い文章が書けなかったら、もっとスリリングでワクワクするような人生を楽しんだほうがいい。
ベランダで全裸オナニーとかさ。
ちなみに、先ほど投稿した「あたしたちの串打ち」は一切読み返さず一気に書きました。構成も考えていません。
そういうとこもあたしの料理の作り方に似ています。材料があって、なんとなーくあるもので料理して、得意な味付けでしめてみた感じですね。
今回はちょっと構成を考えて4つにセクションを分けて書いてみました。
ちょっとは読みやすいかしら?
あたしたちは料理もできないし文章も書けないし日本語も拙いけどちんぽがすぐに硬くなるイケメンを応援しています!
あたしたちの串打ち
「焼鳥屋からの切なるお願い」
⇒ http://amba.to/2fx7qK8
ネットでうろうろしてて、気になったこの「焼き鳥の串を外すのはマナー違反か?」問題を取り上げます。社会派ですね。
諸々のまとめ記事を読む限り、焼き鳥屋さんは一本一本丹精込めて串打ちをするので、食べる時に肉を串から離すことはそれを台無しにしている、ということのよう。
ネット上の意見を見る限りでは、串から外すと「肉汁が落ちるため、味を損なう」だとか「冷めやすくなる」だとかの理由でマナー違反(美味しく食べることができない)と言われているんだとか。
そんなにバラになった肉が食いたけりゃバラバラで焼いて食えよ、と。
(要するに焼肉として食べてよ、ということみたい。)
んんんんん〜〜〜〜????
なんか、そういう問題なのか?と思ってしまった。
だって、焼き鳥って、その方が美味しく焼けるから、串に打ってるだけなんじゃないの?と。
食べる時に美味しいから串に刺しているわけではなくない?
もちろん、あたたかいうちに食べる方が美味しい、とか、肉汁が出ると旨味が逃げる、とか、はちょっと年下のあたしにもそのくらいわかるわよ。
でもそれがイコールで串に刺さっておるほうが美味しいとは限らないと思うの。
例えばよ?
焼き鳥って焼く時はゲタ状(=みたいなかたちね)になった台の間に炭火を置いて火にかけてるわけよね。
そこに串を渡して(橋をかけて)炙ってるわけよね。んで、串打ちが難しいというのは、串を打つ時に、均等に火が回るように刺さないといけないから、だと思っていたの。
話をちょっと変えると、鮎の塩焼きってあるじゃない。鮎の口に串を刺して、焚き火の周りに立てて焼くわよね。
そういうのも別に、串を刺したから美味しいわけではなくて、調理をする都合上、その方が勝手が良いからそうしてるわけなんだと思ってたのよ。
食べる側からしても、当初は皿とか箸とか使う概念がなかったから、串を打ってそのままかぶりつくのが効率的だったりさ。
お寿司だって元々は1巻2巻つまんでお茶(あがり)をすすってお金払って帰るものだったわけじゃない。
それが今の時代でも正だとするなら、正しい食べ方をする人なんて立食パーティでピンチョスみたいな食べ方するような人たちだけじゃない?
串で焼くことのメリットはもちろんあると思うのよ。
というわけで、串焼きのメリットを調べてみました(アフィリエイト記事風)
焼き鳥はなぜ串に刺さっているのか? http://www.hinokami.co.jp/megane/105/
ほほー。
つまり、商売をする側として量り売りではなく串売りをした方が管理面、生産効率の点で優れている、というわけね。
細かく切った肉の方が火の回りが早いし、串一本にまとめれば、ひっくり返す工程も簡単で、両面に均等に火を加えることができる。
鶏肉は「皮目をこんがり焼いて、肉はふっくら」が良いとされているから、構造上理想的な焼き方になるという見方もできるでしょう。
頭の方の肉のほうが大きい、とか
根元のほうが味が濃い、とかも、
だから串のまま食べたほうが美味しいとはならないんじゃないかなー。
均等にしてくれ、と言ってるわけでもないし、取り分けても先の方から食べれば同じじゃん、ってなるような気がする。
結論!
焼き鳥屋、特に講釈を垂れるような店は
会食には合わない!
揉めたくなかったら、講釈を垂れるようなお店へは1人で行くように心がけましょう。
っていうのは意地悪な言い方だけど、「お店がある程度ルールを持ってる店」っていうのは、友達だろうと職場の付き合いだろうと一緒には行きづらいよね。
あたしたちの知ってる店で、「鳥田むら」みたいなところだったら
「この店はまず、盛り合わせを注文するんだよ。食べる順番が決まってて、順番通りに食べると味とか歯ごたえの変化が楽しめるよ。提供される時間もお店で見ててくれるから熱々のままで食べられるよ。盛り合わせは6本だけど、1本が3個ずつでちょうどいいボリュームだよ。」ってドヤ顔で通ぶれるのはいいよね。
なんか、、焼き鳥は串のまま食べたほうが美味しい、っていうのも、冷めにくい肉汁が落ちにくいっていう点では、とてもとても理解はできるんだけれども。
自称ツウ気取りのマナー警察みたいで、感じは良くないよね。
そんなことを鳥貴族かなんかでデート相手に言われたらあたしたち、焼き鳥の串で目玉をほじくり返してしまいそうよ。
だったら盛り合わせを頼む時に「うちはチェーン店と比べて串のボリュームがそんなにないから1人一本食べるのでちょうどいいですよ。」っていうアドバイスをしてくれると、串のままで食べやすいよね。
ていうか、盛り合わせを3種類×人数分にしてくれればいいのよね。
5人いて5種類1本ずつ出されてそれを串から外さないで食べるの難しいでしょ。
あたしたちのファビュラスは鳥田むらと鳥貴族を応援しています!
参鶏湯も大好き!