あたしたちが文豪

最近、友達伝いとか直接とかで「ブログ見てるよ!」というか、「あの子面白いね!」とか「さすが文豪だね」とか言われることが多いです。えへへへ。
自分で見ているアクセス数もあると思うけど、およそ1000(は越えたと通知がきた)のビューワーがあったそうですよ。

えへへへへへ。

自分で自分のことを「文豪」と呼んでいるのですが、それは通常の振る舞いが「まともに会話のキャッチボールもできず、昼間っから酒を呷り、人を罵るだけ罵っておいて、文章(ネット)の世界だと知識人ぶる」という破滅的な生活様式
文豪の生活に例えただけなんだけどね。

子どもの頃から本は好きで、というか友達がいないから本を読むくらいしかすることがなくて。
しかも母親の教育方針としてたくさん本を読みなさいと言われてきたので、まぁ少なくはない量の本を読んでいたようです。
今でもなんだかんだ年に何冊か、レベルで読んでるしね。漫画含めたらもっと読んでる。昨今は特にネット上で手軽に他人様の書いた文章が読めるので、反面教師にしたり日本語に解読しながら読んだりしていれば自然と読解力はつきます。

実はあたしたちは「やばいしか語彙がない子ども」に対しては寛容です。
もちろん、桜が散る、椿は落ちる、牡丹はこぼれる、といった風に様々な言い表し方ができるのは素敵だとは思うけれど、別に伝えたいことを伝えるには「枯れる」「終わる」という言い方をすれば十分なわけで、欧米化的な感覚もあるだろうし一概には言えないわけです。

本なんて読まなくたって、恥の気持ちは向学心をもたらすからね。
周りと同じように自分の色を変える生活をしていれば、自然と他の人と同じようになりたいという意識は芽生えるし、人が亡くなったら「御愁傷様でした」「お悔やみ申し上げます」くらいはさらっと言えないとかっこ悪いんだな、とか。
あの人のこの言い方素敵だな、私も学んでみようかな、とかさ。思うわけですよ。
その羞恥心さえあれば人はなんにだって変われると思っているし、もし自分が知らないことを恥だと言われるのであれば、覚えることは褒められるべきことだと思うの。できて当然、じゃない。

村山由佳が「無知は知ろうとすることで克服できる」と言っていたけれど、人間なんて元々は何にも知らなくって、最後は全部忘れて逝ってしまうわけだから、他人が知らないことには寛容で、知ろうとしないことには不寛容なあたしたちでありたいなと思う次第です。

いつもけっこうな文章を書いてから、本題に入るのだけれど(おそらく分けて書けば2回分にはなるだろうと思う)あまり公言しない昔話の中で、高校時代に文芸部だったという経緯がある。
厨二病絶世期だったから、ポエムを書いたり小説(途中で飽きる)を書いたりして、自分が今何を感じていて、何にインスパイアされてるのかを周りの人に周知してたわけね。

私の作品は、アングラ的な人気を持ってしまって、なんか文芸部誌を出すとけっこうな数が売れていた(たまに完売した)の。

その時にね、なんかの賞(県大会みたいなやつ)に出したんだけど、いつもは全世界を呪うようなことを書いてたのに、お利口さんなことにお利口さんな純粋な恋心を綴った詩を出したのね。
そしたら酷評でさあ!!
公のものだから、酷評ではなかったけど、なんかみずみずしく表現してる、で止められちゃって。
でも最優秀賞を取ったのが「それ、CMのパクリじゃね?」っていう作品で。

もうそれからかね、負けるかもしれないんだったら自分が書きたいと思うことを好きに書いて、それで才能が殺されちゃうならそれでいいやって思ったの。

確かにあたしたちはなんでもかんでも「やばい」で片付けて、品も何もないかもしれない。でもあたしたちがお利口さんになっても出来て当然だ、って言うか重箱の隅をつつくようなことしかして来ないじゃんさ。だったら今後の伸びしろを考えてバカ丸出しでありのままを晒したもん勝ちだと思うのよね。
結局のところ、お利口さんの文章を誰が読みたがるのかっていう話よ。
綺麗に体裁を整えて、起承転結をつけて、末尾もスッキリさせたからって、このネット時代、もらえるのはイイネがいいとこで、誰かがあたしたちのことを考えてくれたり、見向きもされないかもしれない。

誰が聞いてるかわからない世界なんだから、とりあえず「やばい」だけ言って済ませることって実は処世術なのかも。