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あたしたちのカミングアウト

あたしたちは常に多面体だ。
この人にだけ見せる自分、というものがあれば、自分自身でも意識しておらず、誰かから言われて初めて出会う自分がいたりする。

どんなに世界中を旅しても、どんなにたくさんの人と話しても、自分の目に映る他人も含めて全て自分なのだ。
人間には客観視というものは存在し得ない。
全ての自分を知る人がいないように、相手の全てを知ることはできない。

だからあたしたちは「裏切ってくれても構わない」と思ってから、その対価を払い、傷つくことを知りながらも、打ち明け合う。

人間は多面体である。
嘘をつく、演技をすると言えば聞こえは悪くとも、そうせざるを得ない自分を肯定すれば、善良さの皮を一枚被った自分もまた、自分を構成する一面に過ぎない。

本来の自分をあけすけにしようとめくればめくるほど、血が滲むほどめくればこそ、人間は全て肉の塊に過ぎないことを思い知らされる。

だからこそファンデーションを重ね付けるように虚飾を纏い、艶やかに彩る。
ありのままでいるということと、虚飾をさらけ出すことは、全く違うことのようで、その本質は同じなのだ。

例えば、それが嘘八百でも宣言することで現実化される、ということはある。
ペタリと貼られて「あたしってこうなの」と言われればそれについては頷かざるを得ない。

自分を強く見せることは、自分が強くなることの一歩なのだから、虚飾は罪ではない。

なにげなく選択している日常や価値観、自分の存在は全て、肉の塊に皮を被せたに過ぎない。

あたしたちは自分のことを話すのが苦手だ。
それは相手の瞳に映り、どう飲み込まれるかわからないからである。
だから、裏切られる覚悟を決める。

裏切られる覚悟があるということは、裏切られても自分には損害がない程度の相手か、先述した通りその価値がある信頼のおける人物に対して、のどちらか。

言ってしまえば、あたしたちに裏切られるということはない。期待をかけたりもしない。
素直な自分をさらけ出す、と心がけていれば、どんな嘘偽りも、誤魔化しも、虚勢も、多面体を構成する一枚の皮に過ぎない。

自分自身のレッテル貼りをしないということだ。
自分のことをわかろうとしないことだ。

小利口で素直なあたしたちは、その必要がない世界を目指す。
その必要がない世界は、きっと単純で、尊重しあい、誰も否定しあうことはないだろう。

ただ、少しだけ寂しい世界でもある。

やはり、わかってもらえない。わかってほしい。知ってほしい。嘘なんてつきたくない。隠したくない。本当のことを言いたい。

あたしたちは、自分になることなんて想像しなかった。
これからの自分だって、きっと想像だにできないものだろう。