あたしたちの違和

今回は性別違和の話を皮切りに、あたしたちがあたしたち自身に感じる違和感について書いていきます。

先も書いたように、あたしたちというのは空っぽもしくはちっぽけな自分自身、に何重も羽織りものをして玉ねぎみたいになった自分を「個性」だと主張しています。

つまり、自分が見てきた世界の価値観は世間の価値観ではないし、自分が見た他人は自分の写し鏡に過ぎないということです。

性別違和を唱える人に、あたしたちは懐疑的です。
LGBTとして一口にまとめられますが、LGBとTは厳密には違います。
性同一性障害とTも違いますが、それは置いておきます。

LGBはあくまでも自分がどこへ向かうか、と外に向かっているのに対して、Tは自分が誰なのか、と内に向かっています。

自分が誰なのか、それは皮を被った赤ん坊に他なりません。
自分を構成する他人でさえ、自分なのだから、自分が誰だろうという疑問は疑問にもなりません。

自分で自分のことを女だと思う、というのは、その女という概念そのものがよそ様(外国)から輸入してきた「女性とはこうあるべき」という概念に過ぎないのです。

あたしたちは、自分が男性なのか女性なのか、という命題に対しては、ノーです。
だから、わからないです。

自分が自分でないような気がする、であればなんとなく理解はできます。
自分の頭とは勝手に、口だけがペラペラと思ってもないことを話し出したり、自分の願望にないことが夢に出たりすることが、自分に対する違和感です。

あたしたちは、自己分析を通して、様々な自分を見せつけられました。
そして、その詰めの甘さに驚きました。


口八丁手八丁でなんとかなる、自分のことなんて何とでも話せる、と思っていたことの、どれだけを自分の力で話せるでしょうか。

あたしたちは実は口ベタです。
多弁でも、鏡で自分を見ることができるように、自分を話すことはできないのです。
鏡を使わずに自分の顔を説明しているものです。
うまくいきっこありません。通じません。

だからあたしたちにはストーリーが必要です。
他人を説得するためのストーリー、そして自分が違和感を覚えないストーリーです。

思うように自分を説明できないことは、とてももどかしく、辛いことです。

あたしたちは、自分が何者なのか。
何ができて、何ができないのか。

特に、自分と似たような人間とばかり接触しているとそれは顕著です。
「あたしたち」という前提で動き出す話題の、「あたしたち」が何者なのか、当人たちは一切わからないのです。

だから、自分を語ることができません。
自分を語ることができなければ、相手は自分のことを知ることができず、自分のことを相手に知ってもらうことができません。

自分というものが、とてもちっぽけなものであるように感じるのは、自分が見えている自分の範囲が狭いからです。

声が小さければ、声を張り上げればいい。
でも、声の大きさを知らなければ、それもできません。

10代20代までは、まだ見ぬ自分を探すための旅でした。
そして30代から先は、自分を話すための旅です。

あたしたちは、この局面を迎え、
自分があまりにも、自分のことを、世間のことを知らなかったと愕然とするのです。

だからこそ、無知の知を武器に、相手に噛み付いては、ねじふせようとするのでしょう。

相手をねじ伏せる必要なんて本当はないのです。

自分が自分のことを女だと知っていれば、後の人には、自分が何に見えようと関係がないのです。

あたしたちが今している旅では、違和を感じるには遅すぎるのでしょう。
学ぶ、ということも同じように言えますね。

あたしたちは何よりも、自分自身と話すことが難しく、だからこそ、自分を語れず、だからこそ混乱し、気が滅入るのだと思っています。