あたしたちの鼓動は愛

24時間テレビって、もう偽善とか善とかじゃなくって、必要悪なんだと思う。

 

当事者本人のやりたいやりたくないを抜きにしても、

障害者を見世物にして募金を募る構造は見世物小屋そのものだと思うし、それで負荷がかかってるのは障害者側だもんね。

同じことをどれだけの健常者がやりたがるだろうか、という意味でもね。

 

本人がやりたいって言ったとしてもテレビで晒し者にしないと叶えてあげられない、と言うのであれば、自発的見世物小屋なだけですよ。そもそも見世物小屋だって本人がそれでやっていこうと思ってやってるわけ。

賃金が発生する見世物小屋よりもよりそれはアレなんじゃないかしら。

 

もちろん、当事者の夢を叶えてるということは素晴らしいことだとは思うわけ。

実際に2億円も募金ができているわけだしね。

とはいえ、老人を100km走らせたり、無理を気合いで押し通させたり、っていうのは、このご時世、誰からも批判されることなく続けられることではないわよね。

 

30年前にはじまったらしいけれど、結局30年間ずっと同じことをして飽きない??

というか、世の中ってもっと変わっていってない?みたいな。

良い意味でも、悪い意味でもね。

 

障害者施設の殺人事件だって起こってるわけで、それで愛だの根性だのっていうのは詭弁でしかない。

障害者はがんばらなくったって、誰かに手間をかけなければ生けなくったって、生きているということは、それだけで誰かに蔑ろにされるようなことではないのよ。

障害の有無なんて関係ない、生きてちゃいけない人間なんて一人もいないのよ、っていう強いメッセージを打ち出して欲しいと、あたしたちは思っています。

 

だって、「障害者なのにテレビに出てる」みたいな理由で暴力が振るわれるような国に生きてるわけじゃん、うちら。

 

白杖持って歩いてたらわざとぶつかって来られたりさ。

 

今回はおじいちゃん(そこまででもないか)がマラソンを走ったのだけれど、雨の日曜日に武道館にあれだけ人が押し寄せるっていうのは、驚きだったのよね。

 

 みんな興味あるんだ、見世物小屋に感動を期待してるんだ、って思って。

 

感動したい、っていう人間の欲に対して、この犠牲の多さは愛だとか夢とかで完結できるものではないでしょう。

 

 

私が出ろって言われたら、そりゃまぁ出ますけど。