あたしたちと千羽鶴
昨日こんなものを目にした。
そもそも、どう斜め読みしたら「熊本人が千羽鶴を燃やしている」となるのか、不思議で不思議でしょうがない。
子どもたちがお金を出せず千羽鶴を
折る、とは言うけど、その子どもたちは自分自身で自由に扱える金銭はなくても、学校に所属するだけの中流家庭の子どもが大半であるように思う。
であれば、募金をするだけの金額も出せない、という理由にはならない。
彼らは毎日、朝昼晩食事を取り、暖かい布団で眠り、おそらくは新品のランドセルを買い与えられて生活しているのだろう。
(もちろん、世の中にはそんな家庭だらけではないのは理解しているが、募金は1円からできる。1円も出せないのであれば、鶴を折る金だって捻出できないだろう。)
気持ちは大事かもしれないけど、今ではないでしょうと。
震災後の物流は非常に不安定だ。
通行止めとなっている地域も多く、孤立無援となっている被災者もいることだろう。
物流が途絶えるということは、今冷蔵庫にある(それも、冷蔵庫は機能しない)ものだけで、停電をしていれば電気もない、家が崩れれば布団もない。
そんな状況になっている場所に果たして折り鶴は必要なんだろうか。
宅配便は無料ではない。
無料と謳われるものは、その企業が代わりに送料を支払う仕組みになっているだけで、実際には料金は発生している。
時間帯指定をすれば必ず届くわけでもない。その日に届くとは限らない。
当たり前に感じている便利さを、それを享受できなくなってから気づくこともあるだろう。
その便利さの裏にある企業努力や人の動きに気づけなければ、どんな思いを込めたって相手には届かない。
世の中がこんな発想の人間ばかりではないと願いたい、と思わせるものだった。
そんなに金が大事か、と言われたら、それは大事だろう。いらないならば、ならばこそ、あなたがそのいらない金を募金すればいい。
震災への復興は、長い年月をかけて行われるべきだ。
その中で、震災から1年後、2年後、10年後、物流が安定した頃に千羽鶴を送ればいい。
私たちは被災した方々への存在を千年忘れず、慈しみの気持ちも千年変わらないのだと、伝えればいい。
今被災が起こって、
今大変な思いをしている人がいる。
たった1グラムの善意が、10トンのトラックに乗れば、その重さは人々を踏みにじるだろう。
そんな善意を食い止めるあたしたちでありたいと思う。