振り切るあたしたち

他人と自分を比べたって意味がない。

そんなことは重々承知で生きているのだけれど、比べる先の相手が得体の知れないものだと簡単に呑み込まれてしまう。

 

世の中にはこの年で経営者をしている人がいれば、中学生の子どもがいる人もいる。石原さとみと自分をいちいち比べなくても、容姿の美しさなんて曖昧なものは簡単に劣等感を掻き立てる。長くもしくは深く愛したパートナーもいなければ、思わず饒舌になるほどの趣味もない。仕事での成功だのやり甲斐だのは蚊帳の外だし、じゃあセックスに狂乱して出産できそうなくらい肛門が広がってるわけでもない。友達だって年々減る一方で、久しぶりに会えば面白いけど、優先順位は誰かや何かに取って代わられている。

あたしたちはきっと、何かをしているうちに、もしくは何もしていないうちに、どんどんと老いさばらえ、頑固になり、卑屈になっていく。

 

(あたしたちの)とつけていることには、確か、人間なんて罵れば蝕み、褒めそやせば増長するような、短絡な情動構造に対して「あたしとあんた、あたしと誰か、そこの違いに大きな意味がない」ということからであったんだけど。

 

だからこそ思うんだけど、あたしたちはもう、キリがない比較からは脱しないといけない。

「もっとしっかりしなきゃ」「ちゃんとした人生設計を」「清潔な白馬に乗った王子様が」どれも意味ない。

 

違うのよ、しっかりしてたら今こんなんじゃない!

理想を語って理想通りに生きてこられたわけじゃない、波に乗ってスイスイ太平洋横断できるわけじゃない。

王子様が乗ってた白馬が糞塗れだったり、王子様にセフレ扱いされたり、足を踏み出したところで糞溜めに落ちたり、うまくいかないことなんかたくさんあるのよ。

 

その、うまくいかなかった結果に対して、あたしたちは善処して来れたと思う。

毎日後悔と懺悔のシャワータイムだけど(最近やすみの日はシャワーを浴びないこともある)

だからといって断罪されるほど極悪でもない。

 

上を見上げればきりがない下を見下ろせばきりがないようなことを言いたいわけでは全然なくって。

そもそも、誰かと、存在するかもわからないような人と比べて、それを善処したところで誰が褒めてくれて評価してくれるわけ??

 

石原さとみと比べたらあんたってブスじゃね?石原さとみの表情が100あったら、あんたの表情って3パターンくらいしかなくね?

って言われたらさ。なんで石原さとみと比べるのよ!!やめてよ!デリカシーどこいったの!!ってなるのに。

 

あんたって表情のパターン3つくらいしかないよ?40くらいあるもんでしょ?

って実際に言ってくるような輩にはさ。鼻にひき肉詰めて「ピーマンの肉詰めよ?脳みそスッカスカだから足しておいたわ??」って言えるのにさ。 

 

それが、自分が抱えてる面倒くさいババアみたいな自分(脳内ババアとする)だったりすると、頭の中から消し去ることなんてできないのよ。

他人の言葉でいちいち傷つくほど、真面目に聞いてないから、自分が一番自分を責める。自分以上に自分に興味があるのなんて、自分以外にいないんだから。

 

じゃあさ?その、脳内ババアが悪人で、あたしたちが舌切りカナリヤなのかっていったらさ。

その脳内ババアにだって役割があって、きっとそういうことを頭で考えているからこそのセーフティなわけじゃん。

表情3パターンくらいしかないかも、って思うから(今日は好きな服を着て過ごそう)だったり(挨拶くらいはちゃんと声だそう)だったりするわけ。

ちょっと気が張るような雰囲気のごはん屋さんで、茶碗を見栄えよく持ったり、米を箸で切ったりするのは(こういうとこくらい、きりっと食べられるようになんなさいよ)って脳内ババアがいるからなのよ。それができる自分をちょっと誇らしくなったりもするわけでしょ。じゃあそいつを切り捨てるなんて無理。悪いやつだって言い切れない。

 

 

でもほんとに、そういう、ババア感覚で持ってるものって、絶対ロクなもんじゃないから。

 

できないことはできない!できることはいつかする!したいことは善処する!

 

それくらい振り切りを持ち合わせないと、あたしたちってきっとバランスうまく保てないわ。

 

というわけで長くなりましたが、32歳の抱負は「振り切るあたしたち」になりました。